インターナショナルギャラリー ビームス ディレクター 服部 隆氏インタビュー
2022.03.15
インターナショナルギャラリー ビームス ディレクター 服部 隆氏「時流に乗ったものに頼りすぎず、自分の中でブレない軸を」
ビームス 銀座のスタッフだった服部 隆さんを初めて取材したのは今から20年ほど前。
当時からハッとさせる独特の視点と人を惹きつける魅力をお持ちで、
以来、服部さんにはリスペクトの念と、それとは別に妙な親近感をもつようになった。。
(2014年にナポリ&アマルフィをご一緒できたのはいい思い出!)
で、今回たっぷりお話を伺う機会を得られたのだが、
インターナショナルギャラリー ビームスのバイヤーを15年以上張っているだけあって、
服部さんが発する言葉のひとつひとつからたくさんの気づきがあり、
終始納得させられっぱなしだった。
ところで、服部さんの趣味、おうちで中華料理ってやばいじゃないか。
(このとき僕は離れたところから撮影していたので、あとから知った)
服部さんのお気に入りの中華屋はどこなんだろう?
近々、僕のお気に入りの町中華、西荻窪の博華でご一緒して、
至高の餃子と砂肝の唐揚げ、サッポロ黒ラベルで服部さんを悶絶させたいなぁ!
取材・文/早島芳恵 撮影/藤田雄宏
服部 隆
Takashi Hattori
インターナショナルギャラリー ビームス ディレクター。1971年、東京都生まれ。大学生のときにビームスでアルバイトを始め、卒業後に社員となる。2006年よりインターナショナルギャラリー ビームスのバイヤー、2014年より現職。趣味は、おうち時間が増たのを機に本格的に始めた料理。青椒肉絲、鳥搾菜、参鶏湯、水餃子、油淋鶏、茶碗蒸し、筑前煮、茄子味噌、親子丼、五目湯麺、海鮮炒飯など、レパートリーが続々と増えている。
―服部さんがファッションに興味を持ったきっかけから教えてください。
服部 最初は、幼稚園時代に母が作ってくれたパッチワークデニムの半ズボンをとても気に入って穿いていたことです。母は’70年代のヒッピー世代ということもあり、そういったカルチャーから影響を受けてチューリップハットやデニムのフレアパンツなどを身につけていました。そんな母がデニムの端切れを使ってシンガーミシンで縫ってくれたんです。気に入って毎日のように穿いていたのですが、その半ズボンを友達に褒めれたのが、服に関する最初の記憶です。母はアパレルの仕事についていたわけではないのですが、当時の『ノンノ』などを読んでいて、服が大好きでよく自分の服も作っていました。
小学生時代はちょうどテニスのジョン・マッケンローが活躍していた頃で、その影響でスポーツウェアを取り入れたコーディネートにはまりました。ナイキやアディダス、プーマのジャージーを組み合わせてキャップなんかも被っていましたね。友達も同じようにはまっていました。小学校のときの写真を見ると、みんなジャージーを着ているんですよね(笑)。この中にはアパレル業界に進んだ友達もいます。
中学校に入ると、先輩がナイキのLDVというスニーカーを履いていたんです。黄色にブルーのスウッシュが入ったモデルなんですけど、それがすごく目立っていてカッコよく、真似して同じものを親から買ってもらったのを覚えています。コンバースのオールスターのローカットも同時期に初めて履きました。中学3年生になると、友人と一緒に渋谷や原宿や代官山、御徒町などへ買い物に行き始めました。
―どんなお店に行かれていましたか?
服部 ちょうどアメカジの走りだった頃でしたので、ビームス、シップス、レッドウッド、バックドロップ、ナムスビ、ハリウッドランチマーケット、ハイ! スタンダード、ヴォイス、メトロゴールド、中田商店、玉美、守屋商店、ヤヨイあたりによく行きました。お小遣いを握りしめ、いつも買えるわけではないのに通い続けて、いろいろな話を聞かせてもらいましたね。
―おお、中学生にして王道の店セレクト! 当時流行っていたDCは通ってこなかったのですか?
服部 高校1年生の頃、ヨージヤマモト、イッセイ ミヤケ、コムデギャルソンなど全盛だったんですけど、高価で手が届かないイメージがあり、DCは通らなかったですね。雑誌『ポパイ』から影響を受けていたので、アメカジが好きだったんです。
―『ポパイ』派だったんですね!
服部 ええ、『ポパイ』は情報量が多かったんですよね。スタイリングもよかったですし、とても前衛的でした。特に山本康一郎さん、島津由行さん、祐真朋樹さんのスタイリングをよく参考にしていました。
高校生になると、B.C.B.G.的なきれいめカジュアルに興味を持ち始め、エミスフェール、キャンプス、ハリス、イエスタモロー、マリナ・ド・ブルボン、ラブラドールリトリーバー、アニエスベーなどに通い始めました。
―当時、具体的にどのようなブランドを購入していたのでしょうか?
服部 中学生の頃はチャンピオン、ヘインズ、L.L.ビーン、ラッセル、スミス、ビッグマック、オシュコシュ、ディスカスみたいなオーセンティックなものを買っていたのですが、高校生になってそれらの店に通いだしてからは、ブルックス ブラザーズ、セントジェームス、ラルフ ローレン、オルテガ、コール ハーン、トニーラマ、バス、リーバイスの70507やリーのウエスターナー、それと501のブラックジーンズや505のホワイトジーンズなど、ベーシックかつクリーンで、少しエスプリが感じられる服を買うようになりました。
中学生のときに買った服によくそれらを組み合わせて着ていた一方で、ジャケットや襟付きのシャツを着るようになったのが、大きな変化でしたね。ジャケットの下にBDシャツやセントジェームス、リーバイスやリーのウエスターナーを穿いて、バスのローファーやグッチのビットローファーを合わせていました。
―早すぎるなぁ! ヴィンテージには興味は持たれなかったのですか?
服部 そうですね。私が中学生や高校生の頃の古着屋って排他的なところが多かったんです。リーバイスの507XXを買ったあたりで、満足というか、その領域の深さに挫折しました。それよりも、きれいなところや大人の世界に憧れて、早く大人っぽくなりたいって思っていたんです。周りの友達もそんな感じでしたね。
―なんという環境!
地元や高校の友達とのコミュニティが広がって、いろいろな情報が入ってくるようになったのが大きかったんだと思います。
高校卒業後は漠然と何もしたくなかったので、大学には進学せず、引っ越し屋のアルバイトを始めました。引っ越しのアルバイトってその日払いなんです。高級住宅街のエリアを選んで働いていたので、手伝いに行くと、そのおうちがお昼に鰻を出してくれたり、ポチ袋をくれたりするんです。だから高級住宅街の引っ越しの手伝いばかりしていました(笑)。他にも御用聞きのようなことやイベント会場の設営をしたりして、そのお金で服を買っていました。
初めてインターナショナルギャラリー ビームスの中に入ったのは19歳の頃です。ビームスの原宿店には既に通っていましたが、インターナショナルギャラリー ビームスだけは、あの階段を上りかけてはやめる、みたいなことを繰り返していてなかなか入れなかったんです。そういう方、多いですよね(笑)。
―ははは、よーくわかります!
ただ、あるとき『ポパイ』に載っていたコリンハーヴィーの服がどうしても欲しくなり、それを扱っていたのがインターナショナルギャラリー ビームスだったんです。そのとき初めて、勇気をもって最後まで階段をを上ったんです。
いっぽう、当時の自分にはとてもクラシックなイメージがあったビームスFもまた、大人でないと入れない、という感じでしたが、成人式用のスーツを購入するために初めて訪れました。成人式の服はきちんとしたものを揃えたいという気持ちがあり、現在は神戸店にいる安本(悟さん)という優しい先輩スタッフから購入しました。ビームスFの定番であるヴィターレ・バルベリス・カノニコの生地を使ったサキソニーの3Bスーツ、それに合わせるスティーブン ブラザーズのシャツ、ジョン コンフォートのネクタイ、オールデンのコードバンチャッカブーツまで、全身をビームスFで揃えたんです。
―素晴らしい一式。しかもオールデンはチャッカブーツを選んでいるところがまたすごい!
服部 本当は普通のオックスフォードシューズが欲しかったんです(笑)。ただ、このスーツには絶対ポールセン・スコーンかオールデンだと安本に言われ、パンツもくるぶしの上でダブル4cmで裾上げしているんですよ。これで、チャッカブーツを履いてくるぶしを見せるのがいいんだよ、って。初めての店で全身を揃えている緊張感もあって、汗びっしょりになってしまって(笑)。今思えば、当時のビームスのスーツスタイルそのものだったんですけど、短いパンツ丈がカッコいいのか、ただのつんつるてんなのか、当時の自分の知識ではそれすらもわからなかったんです。でも、ビームスのスタッフがそう言っているのだから、カッコいいんだろうな、と自分を納得させ、意を決して購入したわけです。オールデンを買って帰ったら、なんでこんな高い靴を買ってきたの、って母に怒られて。でも父がオールデンはいい靴なんだよ、ってフォローしてくれました。ただ、父と足のサイズが同じだったので、いつしか父はその靴を勝手に履くようになり、最後は取られてしまいましたけどね(笑)。
普段だったら友達と連れ立って買い物に行くんでしょうけど、そのときはあえて皆バラバラのお店で買って成人式当日に見せ合うことにしていたんです。だから友人より絶対にお洒落に決めたい!という思いがあり、クラシックだけれどモダンな印象があって、革新的なビームスFを選んだわけです。握りしめていった現金は、電車賃以外は見事に使い切って帰りました。
―洋服屋になる天性の素質ですね!
ちなみにその頃はファッションとカルチャーが密接に結びついていた時代で、渋谷のJ TRIP BARなどが人気だったのですが、私はインクスティック芝浦ファクトリーに通っていました。クラブって空調設備のためにボイラー技士を置かないとダメらしいんですよ。それを知った友達がボイラー技士の資格を取って働き始めた、というか潜り込んだわけです。彼がイベントの情報をたくさん仕入れてくれるので、それを参考にして行っていましたね。ちょうど芝浦や天王洲がウォーターフロントと呼ばれ始めた頃でもあり、隣にあったタンゴというスペインバルのテラス席が、それらの人気スポットの走りだったんです。そこで食事をするのに憧れていました。芝浦から汐留のあたりがまだ開発中の時代で、特設会場などで開催されるイベントにもよく通っていましたね。
そのうちに、一緒に遊んでいた周りの友人たちがシップスやアッシュ・ペー・フランス、レディスティディゴー!などで働きだしたんです。さすがにこのままじゃマズいと思ったのですが、それでもまだ働くのがイヤで、大学に入ったら4年間の猶予ができると思い、大学生になったんです。
その頃は銀座一丁目にあったビームスに通っていました。インターナショナルギャラリー ビームスは足を踏み入れ難いし、クロージングサロンも同じく入り難い。でも銀座一丁目の店は、お客さんがあまりいなくてスタッフがとても親切で、いろいろ取り寄せてくれたり、時には修理代をタダにしてくれたりと、よくしてくれていたんです。そこが銀座四丁目に移転したときにアルバイトを募集していたのを機に、ビームスでアルバイトを始めました。
―当時はビームスでどのようなものを購入していたのですか?
服部 ちょうど出始めたルイジ ボレッリや、あとはベルナール ザンスのパンツ、ロレンツィーニのシャツ、レマメイヤーのカーディガンなど、ちょっと大人びたものを選んでいました。テーラードっぽい流れが来ていたこともあり、よりきれいめな格好へとシフトしていったわけです。ちなみにアルバイトを始めた当初はカジュアルの担当でした。ただ、ドレスコーナーは同じフロアの奥にあったこともあり、自分を含めカジュアルとドレスの中間くらいの格好をした人が多かったです。
―ビームスに入ってみて、カルチャーショックみたいなものはありましたか?
服部 そうですね、服にかける情熱というのがすごいなって思いました。当時、スタッフルームにそれぞれロッカーがあって、朝、出勤してくるとまずそこで着替えるんです。つまりカジュアルな格好で来て、お店に立つときのカジュアルな格好やドレスカジュアル、スーツに着替えるんです。夜遊びに行く際はさらに着替える。常にスタイリングを考えているんですよね。朝、商品が入荷してきて検品していると、その場で買って、その場で着て、お店に立つ。ソックスの色がなんか違うな、と思ったら、買ってすぐに履き替える。そういった服に対する情熱がセンセーショナルでしたね。
その後、3階にクロージングのフロアを増床するタイミングがちょうど大学の卒業と重なって社員になり、今度はクロージングスタッフとして配置されました。現在ブリッラ ペル イル グストの無藤(和彦さん)は当時同じお店でしたので、生地の良し悪しやスーツの作り、着方などいろいろなことを教わりました。
―ビームスらしいなと思ったのはどんなところでした?
服部 個々のキャラクターの濃さに圧倒されました。ひとつのお店やひとつの会社には、普通はそれっぽい人が集まるじゃないですか。でも、ビームスにはすごくカジュアルな人と超ドレスな人がいるわけです。でも、みんな仲良く話していて、まったく異なる格好の人でも本質を突いていれば互いに認め合えるところがすごいなと思いましたね。最終的な部分でのよいものをわかっているんですよね。趣味嗜好が異なっていても、最終的には本質的な価値観が同じところにあるのがビームスらしさなんだと思います。それは入社した当時から今も変わっていません。
―影響を受けた先輩はいらっしゃいますか?
服部 アルバイト時代にロメオ・ ジリやヘルムート・ラング、マルティーヌ・シットボンといったデザイナーが台頭してきました。その後にアントニオミロやコスチューム オムなどが出てきて、新しい世代のテーラードスタイルを打ち出したニュービスポークというムーブメントの中で、ティモシー・エベレストやリチャード・ジェームスなどが頭角を現し始めました。クロージング売り場に配属になった頃、そういった流れが盛り上がってきて、それらのスタイルをミックスして着るのがビームスの真骨頂だったんですよね。
アルバイトで入って2年目の頃、当時の店長だった南雲(浩二郎さん)は私にとってあまりにもセンセーショナルな存在でした。それまではクリエイターの服にはクリエイターの服を合わせるのがスタンダードだと思っていたのですが、南雲のスタイルは強烈で、黒いベレー帽にウールリッチのハンティングブルゾン、マリオ・マッテオのドットのシャツ、キャロルクリスチャンポエルのヴェストとパンツ、チャーチのディアスキンのシューズという、クラシックとハイファッションをこれでもかとミックスして出勤してくるんですよ。レイバンのシューターとか掛けて。カッコよすぎてぐうの音も出ないですよね。今でも強烈に記憶に残っています。南雲には着こなしのセンスや力量の差をまざまざと見せつけられましたし、最も影響を受けた一人だと思います。アルバイト時代に私のほうが先に買って着ていたものを、それどこのブランドのもの? と聞かれて答えると、南雲も取り寄せて着て来るんですよ。それが強烈にカッコ良くて。これの着方はこうなんだよ! みたいな無言の圧みたいなものを感じるんです(笑)。そんな刺激的なことが当時は何回もありましたね。
あと、インターナショナルギャラリー ビームスのレーベルで一緒に働いていた、山崎勇次、設楽基夫、西尾健作、関根陽介、そして佐藤尊彦からも、ファッションだけでなく、考え方や仕事論など、多岐に亘って影響を受けました。
そんなこんなでアルバイト時代を含めて10年経った32歳のときに、店舗と兼任でアシスタントバイヤーになりました。
当時アートや洋書ブームだったことと、ちょうど映画『バスキア』を観たのが重なって、アンディ・ウォーホルに改めて魅力を感じるようになりました。特に興味を持ったのは、ポップアートを作製していた若年期ではなく、1960年代に彼が主宰した「ファクトリー」という、ミュージシャンやアーティストの集まるサロンを作って活動していた時期です。ミュージシャンではミック・ジャガーやパティ・スミス、後にボブ・ディランのパートナーとなるイーディ・セジウィックらが所属していて、「ファクトリー」は才能ある不良の溜まり場だったんです。
彼らが撮ったウォーホルを始め、取り巻く人達の写真がファッションの視点からすごく魅力的に映りました。また、ロバート・メイプルソープとの近い関係、ルー・リード率いるヴェルヴェット・アンダーグラウンドにニコを加入させたりと、活動もセンセーショナルでした。私のスタイルのベースとなっていたアメカジにハイファッションの要素が加わったのも、ウォーホルからの影響が大きいですね。そこに属していて、ウォーホルのスタイルをよく撮影していたのが、ビリー・ネームという写真家だったのですが、その写真がとてもカッコいい。ヨーロッパの匂いを感じさせるアメリカの写真家だったんです。
ビリー・ネームが撮ったウォーホルの写真集『ALL TOMORROW’S PARTIES』(1997)。
こういったムードがめちゃくちゃカッコいいな、と。
他にもジェラルド・マランガという詩人兼写真家が所属していて、彼もパティ・スミスやルー・リードを撮っていたのですが、繊細な感じがとても素敵でした。あとは海外のファッション誌だと『L’UOMO VOGUE』などをチェックしていました。ピーター・リンドバーグが撮った写真もたくさん載っていて、今見てもカッコいいなと思います。
ジェラルド・マランガの『memory’s snapshots』
『L’UOMO VOGUE』
アートとファッションが融合したこの感じからとても影響を受けて、アメカジやイギリスのクラシックなテイストもいいですが、ハイファッションやモーダテイストのスタイルもカッコいいなと思い始めました。
―なるほど、今に繋がってきましたね。そんな服部さんが他社でカッコいいと思う方はどなたですか?
服部 鴨志田康人さんですね。本当にスタイリッシュな方だと思います。何がカッコいいかというと、鴨志田さんは所作、仕草がいつもとてもスマートなんです。10年以上前の話ですが、6月に出張したミラノで宿泊先のホテルが一緒だったことがあったのですが、猛暑の日に鴨志田さんが外からホテルに入ってきたんです。真っ黒に日焼けして、エメラルドグリーンのリネンシャツにリーバイスの501、エスパドリーユみたいな格好だったんですけど、雰囲気が日本人じゃないんです。リゾート慣れしているイタリア人のようなオーラが出ていました。
パリで見かけたこともあります。バスから降りた目の前がカフェだったんですけど、そのテラス席で鴨志田さんが一人でカフェを飲まれていたんです。キャメルのコートの襟を立てて脚を組んんだその姿が、パリの人たちに完全に溶け込んでいて。猛烈に寒い日なのに、もうすごいなって思いました。
服や着こなしが素敵なはもちろんなんですけど、鴨志田さんってその街に当たり前のように馴染むというか、醸し出す雰囲気、オーラが別格なんですよね。
―『THE RAKE』で鴨志田さんの連載を担当しているのでよくわかります。ところで服部さんは視線が全世界に向いているところがすごいなと思うのですが、バイイングの際はどのようなことを意識されているのでしょうか?
服部 ブランドへの先入観は極力持たないよう心がけています。悪い言い方をすると雑食なのかな(笑)。知名度や価格は気にせずに直感で見ますね。それと海外でしたら、街の雰囲気や空気を感じ取ることも大切です。ある程度経験を積んでいくと、次に来るムードがなんとなく見えてくるようになるんです。私の場合、そういうのを大切にしています。
もちろん、仕掛ける部分も多分にあります。仕掛けないと勝負出来ませんからね。以前だったら1本の大きな柱があって、例えばエディ・スリマンが手掛けたディオール オムが出てきた時は、そのスタイルが大きな流れになって、ファッション全体がそこに傾倒してそれが成り立っていたわけです。ただ、最近はファッションの流れが細分化していて、どこを切り取るかでお店の特徴が大きく変わってくるようになりました。インターナショナルギャラリー ビームスはファッションの取り入れ方が早いと言われることもありますが、それは必ずしも大きな柱ではなく、枝分かれした一本でしかないように思います。今の時代、ファッションにおけるスタイルは、それだけ多様化しているんです。
―そういった中で、トレンドをどのように捉えていますか?
服部 トレンドは最先端の情報であると捉えられますが、最も早いものではなく「情報のヒエラルキー」という立ち位置になってきていると思います。SNSも含め、いわゆる情報はピラミッド型に落ちてきていて、実際に属性や拡散や情報感度によって、トレンドを体感するには個人差があると思います。感度の早い人によって拡散された情報は、感度の高い人から順に手に入れて拡散されていきます。つまり、トレンドとは実際にヒエラルキーの頂点ではもう既に飽きられていて、情報は下層部に落ちてから一般化して、いわゆるトレンドとなるのです。
個人的にはトレンドとは「すでに飽きられている」「もう常識である」「すでに流行っている」と思うことだと考えています。難しいのは、SNSの台頭で実際にその感じ方は、その人がピラミッドのどの位置にいるかで変わってくることです。仕事的には「トレンドのその先の先」を常に意識し、仕掛けることが使命ですが、商売的には現在ピラミッドのどの部分がどういった状況になっているかを把握していなければならないのが難しいところです。一番早く発信しているつもりでも、実は一番後ろだったりとか、そういう矛盾や難しさがありますよね。そういったことへのアンチテーゼというわけではありませんが、先入観を持たず、直感を信じ、一番先のその先まで見ているのがインターナショナルギャラリー ビームスの真骨頂だと考えています。それがいちばん考えていること、意識している点ですね。何をもってトレンドなのかというのは、実は相当難しいことだと思います。
―すごくよくわかります。ところで服部さんはオリジナルのレーベルも手がけていらっしゃいますよね。
服部 インターナショナルギャラリー ビームスのオリジナルアイテムは数年前にコンセプトを一新し、今はバイヤーの関根が手がけています。そのシーズンを象徴するものやテーマ性に沿ったものをバイイングするなかで、買い付け商品だけでは補えないものを作っています。例えばバルキーニットが欲しかったのに、買い付けられなかったとか、このニットに合うパンツが欲しいけれどない、というような場合です。売上をとるために量産する、といったものとは違いますので、シーズン毎にアイテム数も違います。リピートして同じものを作ることはほとんどないですね。オリジナルブランドの領域を超える完成度の高さで、ひとつのブランドといっても過言ではないくらい、彼の感性が発揮された内容に仕上がっています。
―服部さんが注目している着こなしやアイテムなどありますか?
服部 大量生産・大量消費に価値が感じなられなくなってきている世の中で、古着のような感覚だったり、デザイナー自身のハンドクラフトによるものや1点1点手縫いしているブランドが出てきています。ビジネスの視点では、そういったものに惹かれますね。以前だったら、同じものを何点も生産していたのに、1点ずつ少しずつ異なったデザインになっていたりするわけです。アメリカのボーディやイギリスのオルビイ・トーマスといったブランドがそれにあたります。
オルビイ・トーマスはデザイナー自身が服を作っているんですよ。コレクションを広げて知名度を上げて売り上げていくのではなく、きちんと価値を伝えられて長く取り組めるところ、例えば大手のセレクトショップではなく小さなショップとだけ取引をしたい、そういったブランドが増えている傾向にあります。服に気持ちが込められていて、ストーリーがあるもの、そういったブランドが気になりますね。
ちなみにオルビイ・トーマスは移民なんですが、英国はシエラレオネなどアフリカからの移民が多く、コミュニティも盛んになってきています。デザイナーやスタイリストも出てきていて、今そういったムーブメントが起こっているように感じます。
―SNSが台頭してきて情報が溢れているなかで、仕事の仕方は変わりましたか?
服部 情報を得るという点に関して言えば、SNSは不可欠な要素です。ただ、そこだけに頼ってしまうのは違いますよね。仕入れを構成する上ではさまざまな要素が絡み合ってきますが、何かに頼りすぎてしまうと、それがなくなったときに厳しいですし、時流に乗ったものに頼りすぎることなく、自分の中でブレない軸を持っていることが大切だと思っています。
―確かに。ところで服部さんにとっての定番服を教えてください。
服部 定番ってそもそもどんなものかと考えたとき、リーバイスの501とかブルックス ブラザーズのBDシャツとかニューバランスのM1300とか、服としての定番ってありますよね。。で、自分の場合はどうかと考えると、それらも持っていますが、定番とはちょっと違うかなと思いました。
1回それを着るんだけど、飽きてしまってしまい込んでしまう。で、また数年後に取り出して着る、というのが自分にとっての定番服なんじゃないかな、と。ブルックス ブラザーズのBDシャツは持っていますが、もう20年近く着ていませんし、ニューバランスのM1300も当時のものが加水分解してからは買い換えていません。
では何があるかと考えたら、クルーネックのスウェットがそうなんですね。それらは一枚でも着ますし、ニットカーディガンやブルゾンやジャケット、さらにはコートの下に着たりして、そういったことを30年くらい繰り返していて、しばらく着なくなっても何年かごとに必ず繰り返して着ています。基本的に飽き性なので、他にそういったアイテムはないですね。
ですので、私にとっての定番服は、昔ながらのカレッジスウェットということになるのかな。60’s~90’sのチャンピオンやラッセルなどの古着が中心です。
ちなみに服を買うときは感覚ですね。ピンとくるかこないか。ですので悩むことはほとんどありません。好き嫌いがはっきりしています。仕入れのときもあまり迷わず、判断は早いほうだと思います。
服部さんが愛用しているスウェット。
―服部さんの考える、テーラードの新しい着こなしはありますか?
服部 新しい着こなしって難しいですね。バランスの緩急で変化をつけることでしょうか。例えば、飽きてしまったら、丈を短く直して見せ方を変えたり。直して着ている服はたくさんあります。
―では、今の気分のバランスとは?
服部 ブルゾンは着丈50cm~60cmくらいのベリーショート。ジャケットでしたら着丈80cmくらいの長め。肩がコンパクトでボディがシェイプしている、’70年代のイヴ・サンローランのようなスタイルかな。太めのラペルが気分ですね。
シャツはここ最近レギュラーカラーやラウンドカラーやタブカラーが続いていたので、思い切ってカッタウェイです。それに太幅でノットが大きめのネクタイ、パンツは2プリーツのワイドストレートやバギーといった’70年代ムード、あるいは’30年代ムードのパンツとイギリスっぽいVゾーンにフレンチの気分を融合させる感じの緩急のつけ方が気分かな。
―インターナショナルギャラリー ビームスの皆さんは個性派揃いなので、同じアイテムでも、きっと服部さんがおっしゃったような着こなしにはならないですよね。
服部 そうですね。洋服を売るということとセンスを売るのがインターナショナルギャラリー ビームスであって、スタッフ個人の感覚や着こなしを支持してくださるお客様が多いです。
―テーラードを着る際に意識していることはありますか?
服部 番重要なのは第一印象だと思うんです。ジャケット、パンツ、シャツ、靴はサイズ展開が多いですよね。でもTシャツなどカジュアルなアイテムって、せいぜいS、M、Lの3サイズ。ネクタイやタイピンなどの小物に至ってはサイズがありません。
テーラードってサイズ展開が多いものとサイズがない小物を合わせるじゃないですか。サイズが多いものって基本的にルールが多いものなんです。サイズがないものは反対にルールがない。ルールがないものにはセンスが必要なんですよね。
スーツのVゾーンって、センスが必要なネクタイやタイピン、チーフまでを合わせるわけですが、ルールがあるものとルールがないものを合わせるって難しいと思うんです。パッと見たVゾーンですべてが決まってしまう。この人、ネックサイズが合ってないな、ネクタイ曲がってるな、このスーツにこのチーフ? 素材どうしのバランスは? みたいな。テーラードを着る際はルールとセンスの両方が必要で、それを表現しなくてはならないですよね。
―ルールのないものにはセンスが必要。確かに! それを具現化している服部さんのサルトリアルヒーローはどなたですか?
服部 リチャード・ジェームスですね。ちょうどニューテーラーが流行っていた頃ですが、当時のリチャードジェームスの服って今でも着られるんですよね。今見てもやっぱりカッコいいんです。
イギリスという伝統と格式、イタリアよりもお堅いさまざまなルールがあるテーラードに革新をもたらした点が、彼のすごさだと思います。
’95年にリチャード・ジェームスの店で買い物をしたときのレシート、ヘイフォードのエチケット、ヴィクトリア&アルバート博物館のパンフ。「当時ジョン ロブにも行きましたね。セントジェームスのジョン ロブはビスポークしかやっていないことを知らずにお店に入ってしまったのですが、とても親切にいろいろ見せていただきました」
あと、少し違うかもしれませんが、マルタン マルジェラもそうですね。マルジェラも現代におけるテーラードを再解釈した人物の一人だと思います。数年前にパリで開催された回顧展で、1989年から2009年までの作品の軌跡を辿っていたんです。すごく広い肩幅に緩いボディのジャケットを作っていて、その翌シーズンにはコンパクトな肩幅のジャケットを作っている。人間の内臓のトロンプイユの服があるのですが、それもバス芯を入れた構築的なシルエットで仕立てられている。テーラーの人たちが思いつかなかった解釈を、デザイナーとしてテーラードに取り入れているんですよね。マルジェラがそういったこそをしたからこそ、テーラードが再注目されたわけです。テーラードをファッションの視点から捉えてそれを再構築することを成した人なんだな、と改めて感じました。
今日、マルジェラを意識しているデザイナーが多くいること、もともとマルジェラがやっていた手法やディテールだったんだ、といった発見が非常にたくさんありました。’90年代にマルタン マルジェラが台頭してきたときは、私自身はどちらかというとアンチマルジェラ派だったことを思い出し、展示を見終わった後に心の中でそれを謝罪し、彼の功績を称えました。帰国後すぐに、ブランド誕生時のシグネチャーアイテムである足袋ブーツを購入し、今でも尊敬の念を抱いて履いています。
―ファッションに対するこだわりは年を重ねる毎にどう変化してきましたか?
服部 こだわりというのは昔から変わりません。こだわっているのが当たり前、こだわっているからこういう仕事をやっているんですよね。他人がどう思うかとかではなく、自分なりのルールを決めて、それにこだわらなくなったらダメなんだと思います。常に上のところでこだわっていて、緩めてはいけないし、落ちていってはいけないんです。自分なりに無理のない範囲で、全力でこだわり続けています。
自分なりのルールがあって、極力2日続けて同じ服を着たりせず、同じ靴を履かないよう気をつけています。仕事する日に限った話ですが、もう今日はこんな感じでいいや、と思ったら負けだし、終わりだなと思っています。
本当は、その対極が出来る人が、センスのある人でお洒落な人だと思うのですが、自分にはセンスも才能もないので、モチベーションを維持するためにルールを決めているのです。
―今日はたくさん私物をお持ちいただいているのでいろいろ拝見させてください!
「迷彩柄のスーツはリチャード ジェームスのもので、’95年頃に購入しました」
「きれいな色のシャツはリチャード・ジェームス。たくさん所有しています」
「ネクタイはイギリスのデボネアとフランスのエーデルワイスで、90年代のものです。どちらも廃業してしまったブランドですね。右端はマーク・ステファン・マレンゴのウールタイです」
「VANSのスニーカーは学生の頃からのものを含め、30足くらい所有しています。ベロアやオーストリッチ風など、ERAやローカットのちょっと変わったものが好きで、20代の頃は古着屋で買っていました。スポーツブランドのスニーカーは取っておいても経年でソールが加水分解して履けなくなってしまいますが、コンバースやVANSはゴムソールなので、劣化が殆どなく今でも履けるのが魅力です」
「一見アメリカものっぽいヴェストはヘルムート ラング。‘96年のものです。ミニマルで洗練された雰囲気かつ少しパンキッシュなムードのアイテムも作れて、繊細さと大胆さを表裏一体で表現出来る、とても素晴らしいデザイナーだと思います。他にもコート、メッシュシャツ、デニム、ニットなど、当時のものは今も大切に持っています」
「オレンジ系のマルチカラーTシャツはアントニオ・ミロのもの。こちらも‘90年代後半のもので、当時はグリーンのリネンジャケットに白いパンツを合わせて着ていました」
「どちらのシャツもヘイフォード。ジョー ケイスリー ヘイフォードのディフュージョンラインで数年間だけ展開されていたものです。1996年のもので、ともにロンドンのお店で購入しました」
「コスチュームオムのブルゾンもまた’90年代中頃のもので、当時インターナショナルギャラリー ビームスで取り扱っていました」
「左端はパトリック コックスのハラコ素材のブーツ、隣がパトリックコックスのディフュージョンラインのワナビーでクリアソール、右2足はロドルフ ムニュディエールで、それぞれパリとビームスで見て気に入って迷わず購入しました」
―最後に、今日の服装を教えてください。
Jacket & Trousers International Gallery Beams
Sweat 60’s Vintage Made in Poland
Shoes Nike Air Jordan Ⅲ Mocha
Sunglasses Opticien Loyd
服部 ジャケットとパンツはインターナショナルギャラリー ビームスのオリジナルで、2019年のものです。ノーカラーが新鮮なのとリラックスした雰囲気があり、シルエットも着心地も良く気に入っています。スウェットはポーランド製の60年代のヴィンテージで、友人からのお土産です。古着屋は海外に滞在した際にちょくちょく見る、という感じですね。埃っぽいのとカビの匂いが強くなければ、もっと楽しめるのですが。靴はナイキのエア ジョーダンⅢモカです。ジョーダンⅢモカは何故か好きで、加水分解してしまったものも捨てられず、発売されるたびに買い足して、3足所有しています。あと、メガネはオプティシァンロイドです。
「手元のシルバージュエリーは大したものではありませんが、その日の気分で色々と付け替えています」
「10数年前、パリのサントノーレのエルメス本店で取引先の人と会って、これを出して名刺交換のやりとりしていたら、ジョン ロブのコーナーの店員に『懐かしいものをお持ちですね、磨いてさしあげましょう』と言われ、クリームを入れてピカピカに磨いて手入れをしてもらいました。国内と海外で2回失くしているのですが、奇跡的に2回とも手元に戻ってきました。30年近く酷使しているのに、ほつれもしないし壊れないのはさすがです」
取材に立ち会っていたプレスの安武俊宏さんを呼んで、「安武と一緒に撮影とかあんまり無いから、せっかくだから撮影してもらおうよ」と服部さん。「じゃあ、良いですか?笑」ということで、貴重な2ショット。
Jacket Redaelli
Shirt L’étlange
Pocket Square Drake’s
Shoes George Cleverley
Sunglasses Opticien Loyd
服部 こちらのジャケットはレダエリ。入社当時、今から30年近く前に無藤から譲ってもらったものです。シルク混ですね。2プリーツのパンツは約25年前のインターナショナルギャラリー ビームスのオリジナルで、バニラホワイトのサキソニーです。80年代のアルマーニのようなバランスの着こなしですね。シャツはフランスのレトランジェ。メゾンなども手掛けていて良い雰囲気のフランスのシャツメーカーだったのですが、惜しくもなくなってしまいました。
チーフはドレイクス。
「裾は7㎝のダブルカフ、靴は一枚皮のチャッカブーツを。ジョージ クレバリーです」
Suit Custom Tailor BEAMS
Shirt Luigi Borrelli
Tie Piombo
Pocket Square Vintage
Shoes Trickers
服部 ダークネイビーのスーツは26歳のときにカスタムテーラー ビームスでオーダーしたものです。当時はスーツのイロハを今ほど知らなかったので、イギリスをイメージして先輩にお任せで作ってもらいまさした。セミスラント仕様でチェンジポケット付きの3Bジャケット、インプリーツのトラウザーズと、言われるままにオーダーしたのですが、20年以上経った今も気に入っています。
「シャツはビームス別注のハケメのルイジ ボレッリ、ネクタイはピオンボ、チーフはイタリア製のヴィンテージです」
「トリッカーズの黒スエードとカーフのコンビサイドエラスティックです。15年くらい前に購入したものです」
―今日はどうもありがとうございました!
服部さん、カッコよすぎるわ!